銀座と共に90年

当時の銀座通りといえば車はほとんどなく、乗り物は市電(後の都電)か地下鉄、自転車が少し走っているくらいで、まことに長閑でした。 昭和16年、海軍の巡洋艦「高雄」に勤務していた信州上諏訪出身の、三ヶ野原隆祐と結婚しましたが、一週間の休暇中のことで又すぐに乗船して南方へ出航して行きました。
その年の12月8日に大東亜戦争が勃発しました。はじめは勝ち戦でしたが、19年の末頃から毎晩B29爆撃機が一機ずつ偵察飛行に来るようになり、サイレンが鳴るたびに三和銀行の(現UFJ銀行銀座支店)の地下へ避難しました。

写真:昭和20年 爆撃
昭和20年1月27日の午後、空襲警報と同時に銀座5丁目鳩居堂前の地下鉄入り口に、爆弾が投下され直径15メートルもの大きな穴が開き水道管が破裂、地下も地上も水浸しになりました。私はお店の前にいましたが立っていることができず、思わず地面にうつぶせになりました。地下鉄構内に避難した人々は全滅、有楽町の駅でも大勢の人が亡くなられました。又、泰明小学校の先生四名も尊い命を失われました
戦争も大詰めを迎え嶋屋も3月中に強制疎開をしなければならなくなり、僅かな商品を同業者に引き取ってもらいやむなく閉店いたしました。その頃、妹の照子は海軍省に勤めておりましたが退職し、家財道具一式トラックに積み一家で秩父の農家の二階へ疎開しました。そこは養蚕をしていたところで天井が高く、夏は良いのですが冬の暖房は火鉢だけなので、その寒さは都会育ちの私たちにとって本当に辛いものでした。

写真:焼け野原になった銀座
銀座も5月に焼夷弾で7丁目、8丁目を残して焼け野原になったようです。
やがて8月15日の終戦を迎え、おかげさまで主人も外地から横須賀勤務となり9月末には復員することができました。
本店の場所も更地になっていたので、早く復興したいものと再度地主様へお願いに上がり、幸いお借りすることができました。1年半辛抱し22年の暮れに、やっと二階建ての仮建築が完成、空き箱や板を並べて商売を再開致しました。父にとっては三度目の再出発で62歳の時でした。
■ 水野久子 ■ 大正9年銀座に生まれる (株式会社 嶋屋 会長)



























