銀座と共に90年

昭和22年木造の店舗を建てることになりましたが、肝心の材木がなく、千葉の親戚より丸太を譲ってもらい、トラックで運んでやっと建前ができました。ところが今度は大工さんが食料の買出しに行って休んだりするので、完成までずいぶん日数がかかりました。さて、やっとお店が出来ても商品がありません。薄用紙を裁断して「ちり紙」としたり、ライトインキの会社から固形染料と小瓶を譲り受け、水に溶かして自家製のインキとしました。つけペンで書くと、はじめはよく書けるのですが、だんだんと薄くなってしまったようです。又、車のタイヤの落としを小さく切ったものは「消しゴム」です。あまりよく消えないのですが、それでもよく売れました。今では考えられないようなお話です。
写真:進駐軍
翌23年、不動産として持っていた緑が丘の土地付きの家と、柿生の土地を売却、わずかな預金とで西四丁目並木通りの土地25坪を購入し、支店を開店いたしました。母と妹がよくがんばって今の「並木通り店」となりました。当時の並木通りは銀行や事務所ばかりで商店は少なく隣は吉本興業の事務所でした。銀座通りも昼間はアメリカの軍人さんがPX(今の和光)などで買い物をしたりして、少しずつ活気づいてきましたが、夜はネオンも少なく寂しいくらいでした。
写真:昭和30年ごろの嶋屋本店
支店の開店と同時に「株式会社 嶋屋紙店」を設立、商売も順調に伸びていきました。昭和30年父の念願であった鉄筋4階建てのビルを本店の両隣と合同で建てることができました。地階が事務用品、1階が文房具、2階が画材売場、3階が住居、4階が事務所となっていました。

写真:昭和31年 初孫(現社長)を抱いて
昭和31年妹が待望の男児「泰輔」(現在の社長)を出産、初孫を抱いた父のうれしそうな顔が思い出されます。2年後父が他界したので、その後主人とともに商売を続けてきました。昭和34年天皇陛下がご成婚になり国を挙げてお祝いいたしました。そのころから高度成長期に入ったようです。39年東京オリンピック開催、42年には銀座から都電がなくなりました。その時は四丁目交差点に4000人以上の群集が集まったとのことです。その後歩行者天国が始まり、43年、明治から百年目の記念に「銀座祭り」が以後今日まで続いています。
■ 水野久子 ■ 大正9年銀座に生まれる (株式会社 嶋屋 会長)



























