銀座と共に90年

大正9年銀座に生まれた私が今までに見てまいりました銀座のこと嶋屋のことを思い出すまま書き綴って見たいと思います。
はじめに「嶋屋」の由来についてお話しいたしましょう。
私の祖父である初代鉄五郎は赤坂の嶋屋藤兵衛に奉公し、和紙のことや帳簿づけなど商いを覚えました。その後、明治の初めに夫婦で丸屋町(現在の銀座8丁目外堀通り)に嶋屋紙店を開店したのが嶋屋のはじまりでございます。

初代社長・水野信次郎(会長の父)
商売は順調で店も繁昌し、明治18年には私の父、信次郎も生まれました。その後、祖父は店を伯父の勝太郎(二代目鉄五郎)に譲りましたが、伯父は商売よりも芸道楽に夢中だったため、とうとう店を閉めることになってしまいました。
この様子を見ていた父、信次郎は独立することを決心し、日本橋芳町に店を構えました。しかし父は生まれ育った銀座が好きで、いつかは銀座に戻って商売をしようと決めていたそうです。いろいろな苦労の末、明治44年の5月に麻布の田島様より間口3尺5寸の床店(トコミセ)の土地をお借りすることができました。これが現在の本店のある場所でございます。
床店でございましたので電話もなく、トイレもない誠に不自由な生活でございましたが、7年後の大正3年に隣店を改造、一戸建ての自家に移ることができました。この時、父は「嶋屋紙店新営業所」と自分で紙に書き、大看板にかかげたのが最高の幸せと申しておりました。
ところが大正12年9月1日関東大震災が起こり銀座は地震と火災により大きな被害を受けました。そして店も焼失してしまいました。この時、私は覚えておりませんが菩提寺の麻布の光林寺へ避難して助かったそうです。震災後の銀座の復興はすばらしく前にも増して活気を取り戻しました。
大正15年には妹の照子が誕生、年号も昭和と改まりました。私はといいますと昭和2年に泰明小学校に入学しました。エンジの袴をはき、肩からカバンを掛けて父に連れられて行ったことを今でも覚えております。
当時の嶋屋は朝7時には開店、夜は9時まで店を開けておりました。店の片隅ではタバコや切手も取り扱っていたため、たいへん忙しく、私は学校から帰っても邪魔になるので2丁目にあった習字の塾に行かされていました。
その頃の銀座は昼間から露店が出ていたり、まだ川がいくつも流れていました。三十間堀の横の路地にはお地蔵様があって毎月7.18.29日には縁日が開かれとても賑わっておりました。現在は出世地蔵尊として4丁目三越の屋上に祭られています
■ 水野久子 ■ 大正9年銀座に生まれる (株式会社 嶋屋 会長)



























